Malala: Fighting for Women’s Rights | STUDY POINT~高校授業編~

Malala: Fighting for Women’s Rights

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Malala: Fighting for Women’s Rights



1 / マララ・ユスフザイは 1997 年,パキスタン北西部のスワット渓谷に生まれまし
た。この地域では伝統的に,女性は,男性が有しているのと同様の権利を持っていま
せん。女の子たちは,男の子たちが学校に行っている間,家にいなければならないの
です。女性は仕事を持つことができません。女性の人生における「仕事」は家事と,
子どもを産むことなのです。
2 / このような共同体の中で,マララは教師である父親のもとで育ちました。マララ
の父親は自分の学校を経営し,マララをその学校に通わせました。彼は子どもたちに,
自由に考えることを教えたいと願い,また女性に教育を受ける機会があるべきだと考
えていました。
3 / 父親の考え方は,マララの考え方に大きな影響を与えてきました。大きくなるに
つれてマララは,女性をそのように扱う慣習を終わらせたいとますます強く思うよう
になっていきました。彼女は,男性と女性は平等であるべきだと考えるようになりま
した。




4 / 2007 年,マララが 10 歳のときに,恐ろしい出来事が起こりました。戦争が急に
勃発したのです。アメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃し,タリバンと呼ばれる軍
事集団がアフガニスタンからスワットへとやって来ました。マララの故郷の町は,か
つては平和で美しい場所でしたが,危険な戦場に様変わりしてしまいました。
5 / タリバンはスワット渓谷の大部分を掌握した後,新しい法律を作りました。その
法律の中には,女性が着ることのできる衣類や,女性が行くことのできる場所,その
他にも女性ができることを規定するものがありました。タリバンは,女の子が教育を
受けるのをやめさせ,マララはもはや学校に行くことができなくなくなりました。
6 / 渓谷は恐怖で満ちていました。その土地の人々が法に従わなかった場合,タリバ
ンは彼らに処罰を与えたり,殺したりしました。しかし,そのような恐ろしい状況下
でも,マララは決して諦めませんでした。マララはそれでもなお,いつか学校に戻る
ためなら何でもしたいと考えていました。



7 / 2009 年にマララは,自らの置かれた窮状を世界中の人々に伝えることを決意し
ました。彼女には,ブログで日記を書き始める勇気がありました。日記の中で,マラ
ラはまた学校に行きたいという願いを示し続けました。のちに,彼女はテレビやラジ
オに出演し始めました。彼女は,教育における女性の権利について話しました。驚く
べきことに,この若い少女は,大人でさえ黙ってしまうのに,人前で意見を述べるの
を一切恐れませんでした。マララはパキスタン内外のマスメディアから,大いに注目
を集めました。しかしタリバンは,マララの言っている内容を好ましく思いませんで
した。
8 / 2012 年 10 月 9 日に,マララの人生を変える出来事が起こりました。(タリバン
の命令にもかかわらず,マララはまた学校に行き始めていました。)ある日,彼女が学
校から家に帰る途中,タリバンの構成員の1人がマララをひどい目にあわせて黙らせ
るために,彼女の頭を銃で撃ちました。彼女は重傷を負い,パキスタンからイギリス
の病院へと飛行機で搬送されました。幸いにも,彼女は一命を取りとめました。




9 / マララを黙らせようとする試みは彼女を止められず,彼女をより強くしただけで
した。2013 年 7 月,マララの 16 歳の誕生日に,彼女はニューヨークの国連で,教
育の重要性についてスピーチをしました。
10 / 兄弟たち,姉妹たちへ。私たちは,全ての子どもの明るい未来のために,学校
と教育を望みます。平和と教育という私たちの目的地への旅を続けるつもりです。誰
も私たちを止めることはできません。自分たちの言葉が持つ力と強さを,私たちは信
じています。私たちの言葉が,世界全体を変えることができるのです。
11 / 以上が,自己の信念に身を捧げた少女の物語です。力強い信念を抱いている人々
は存在しますが,その中でも信念のために命を賭ける人はごくわずかです。その一人
が,マララ・ユスフザイです。彼女が自らの信念に全てを捧げていることは,彼女自
身の言葉の中に最もよく表れています。「私はマララ。私の世界は変わったけれど,私
は変わってはいない。」女子教育を目指す,彼女の夢と希望の前には何物も立ちはだか
ることはできません。



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