The Underground Reporters | STUDY POINT~高校授業編~

The Underground Reporters

PRO-VISIONⅡ

The Underground Reporters








Part 1
1940 年 8 月
その夏,ブデホヴィーツェの町に住むユダヤ人の少年少女は,毎日川沿いの遊び場
で遊んでいました.そこは,彼らが集まって遊ぶのを許された唯一の場所だったので
す.15 歳の少年, ルーダは, 自分たちの自由を制限するナチスの法律に,いら立ち
を感じていました.彼は,すべての不当な規則に黙って従うのは嫌でした.それらの
規則の網をかいくぐるために,何かできることがあるはずです.
「そうだ! 新聞を始めたらどうだろう」
そうすれば,ユダヤ人の子どもたちや若者たちが一つにまとまり,創造性と想像力
を働かせることができると,彼は考えました.
ルーダは書き始めました.
毎日私たちの遊び場に来る人たちについて簡単に述べて,彼らに関する気の利いた
感想を 2 つ 3 つ,付け加えたいと思う.
・カレルはこの遊び場きっての悪童だ.大声を出してみんなを脅かす.
・イリーナは,年下も年上も含めて女の子たちみんなのお母さんみたいになってい
る.
ルーダは全員についてのコメントの一覧を仕上げると,その新聞を『クレピー』と
名付けました.チェコ語で『ゴシップ(噂話)』という意味です.たった 3 ページの長
さで,部数は 1 部だけでしたが,みんなとても興奮し,手に取りたがりました.「次の
号も作ってくれなくちゃ」と子どもたちの一人が言いました.
ルーダは数人の友達から成る取材チームを結成し,次の号に何を載せるべきか話し
合いました.
「スポーツ欄がなくてはいけないね」と,記者の一人が提案しました.「ここでのサ
ッカーの試合について,みんな読みたいんじゃないかな」
「詩もいいかもしれない」と,別の一人が付け加えました.
第 2 号は,創刊号よりもさらに大きな成功を収めました.みんなが詩を称賛し,ス
ポーツ記事にわくわくしました.今や大人たちでさえ『クレピー』を読みたがったの
で,しまいには『クレピー』は町のユダヤ人社会全体に回覧されることになりました.







Part 2
1940 年秋
ユダヤ人がこの町の通りを歩くことはますます危険になってきていました.たくさ
んの人が逮捕されました.ルーダはいたるところで危険を感じずにはいられませんで
したが,『クレピー』を勇気の源として信じていました.
ある日,彼は読者たちに訴えかけました.「君たち一人一人が記者になってくれて初
めて,ぼくたちは『クレピー』を続けることができる.何でも好きなことを書いてほ
しい.家族や,好きな男の子や女の子のことを書いてもいい.あるいは,絵や漫画を
描いてもいい」
「毎日」とルーダは続けました.「ぼくたちがしていいこと,してはいけないことに
ついて新しい規則ができている.でも,ただ一つ制限できないもの,それはぼくたち
の心[思考]だ.ぼくたちが考えるのを禁じることは,誰にもできない.だから,ど
うか頭を働かせて何かを書いてほしい.君たち一人一人に,何かしら伝えるべき大切
なことがあるはずだ」
反響は大変なものでした.若者たちの誰もがみな,熱心に記事や詩や絵を投稿しま
した.彼らは,新聞に掲載された自分の作品を見ると,誇らしさで胸がいっぱいにな
りました.彼らは絶えず恐れを感じているにもかかわらず,自分たちの自由を取り戻
すために書きました.ある詩は,強制労働に従事するユダヤ人の男たちの集団を描写
していました.
「1 月の吹雪の後に」
今日,ユダヤ人たちは仕事に出かけた,
疲れた様子で雪かきをした…
人に見られるのを恥じる者もいた.
仕事に誇りを持て,
やつらにぼくらの強さを見せつけられるように!
『クレピー』は町のユダヤ人みんなの心を一つにしました.『クレピー』は彼らに尊
厳と,自由のために闘うという目的を与えたのです.



Part 3
1941 年 9 月
状況は日を追うごとに悪化していきました.今や町のユダヤ人は,ほとんどすべて
の通りや店に立ち入ることを禁じられました.子どもたちの遊び場さえも閉鎖されて
しまいました.ある不穏な噂が広がっていました.ユダヤ人を収容するため,ヨーロ
ッパ中に強制収容所が建設されているというのです.
ルーダは,自分たちみんなを脅かす不幸な運命に立ち向かう決意をしました. 彼は
取材チームの残りのメンバーと会議
に対してはっきりと抗議の声を上げる手段として利用するよう要求しました.
「ぼくは反対だな」と取材チームの少年たちの一人であるカーリが言いました.「ナ
チスへの抵抗を公言したら,新聞そのものがなくなってしまう.軽い内容にしておか
なきゃだめだ」
「わからないかい?」別の少年,レイナがきっぱりと言いました.「新聞そのものが
抵抗の形なんだよ.ぼくたちが何を書くかはほとんど問題じゃない.新聞を作って回
覧しているという事実こそが,一番大事なことなんだ」
この議論は結論に至りませんでした.しかし,確かなことが一つありました. 世の
中がひどくいやな場所になってしまったということです.町に残された,唯一の楽し
みにするものが『クレピー』でした.
しかし,新聞を続けるのは不可能であることがわかりました.日に日に物が不足し
ていました.『クレピー』を作るのに必要な紙を買えるところさえ残されていなかった
のです.ある日,レイナが『クレピー』の第 22 号を届けにルーダの家に来ました.
「もうこれ以上は無理だな」と彼は言いました.「もはやぼくたちが集まるのは安全
ではないし,記事にする情報を集めるのも不可能だ」
ルーダは沈んだ気持ちでその新聞を受け取りました.結局,それが最終号になって
しまったのです.彼が何よりも悲しかったのは,『クレピー』が象徴していた自由を失
ったことでした.
「ぼくたちに何かあっても,この『クレピー』のセットがばらばらにならないよう
にしないと」とレイナが言いました.
ルーダはうなずき,積み重ねられた『クレピー』の一番上に最終号を置きました.







Part 4
1942 年 2 月
1942 年 2 月初め,町のすべてのユダヤ人が最も恐れていた知らせが届きました.全
員が強制収容所へ送られることになったのです.
ルーダも出発の準備をしなければなりませんでした.彼は荷物をまとめながら,自
分がいない間,22 号までの新聞一式を無事に保管しておける場所はどこだろうと考え
ました.この先自分に何が起きるかわからないのだから,自分と一緒に持っていくこ
とはできませんでした.他方で,家に残していけば処分されるかもしれません.『クレ
ピー』はただの新聞ではありませんでした.その制作に関わったたくさんのユダヤ人
の少年少女の,生活や夢の貴重な記録でした.彼らは『クレピー』を書くことで,自
分たちを取り巻く憂鬱な状況を明るくしよう,いつか平和が戻ってくるという希望を
持ち続けようとしたのです.
とうとう彼は,新聞を保管するのによい場所を思いつきました.新聞が無事に戦争
を乗り切ることを祈るばかりでした.『クレピー』に別れを告げるのは,親友に別れを
告げるようなものでした.
4 月,町のユダヤ人全員が列車で強制収容所へ送られました.
1945 年の終戦までに 600 万人以上のユダヤ人が命を落としました.ブデホヴィーツ
ェの子どもや若者たちのほぼ全員が生き延びられませんでした.ルーダはというと,
ある日,収容所で働いている最中に,着ていたコートを渡すようドイツ兵に命令され
ました.彼はそれを拒みました.彼は最期まで自分の権利と尊厳のために闘って,そ
の場で射殺されたのです.
『クレピー』全 22 号は,無事に戦争を切り抜けました.ルーダは,保管のためにキ
リスト教徒の友人にそれらを託していたのです.そして戦後,『クレピー』は,奇跡的
に生き延びたルーダの姉に返却されました.『クレピー』は今,プラハのユダヤ博物館
で展示されています.


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